「義務教育を終えたらお前の好きに生きていい」中学卒業と同時に、親から自立した生き方をするよう求められたという佐々木さん。大学受験に失敗し浪人の道を選んだそうですが、その期間こそがもっとも辛かったと振り返ります。佐々木さんが自立した生き方を見つけるまでの歩みについて伺いました。


目次

1.学生時代:誰よりも父が怖かった。そして誰よりも父は優しかった。
2.キャリア選択の軸:「あとはお前の好きに生きろ」求められた自立した生き方。
3.社会人時代/ビジョン:大学で学んだことは何もない。バイトこそが人生の教科書だった。

学生時代:
心を閉ざしていたことに気づいた学生時代。

【写真説明:高校の文化祭でダンスを披露した時にユニフォームとタオル】

私は神奈川県横浜市で3人兄弟の長男として生まれました。父はオフィス家具関連の商社を経営し、母は保育関連の仕事に就いていました。両親も横浜生まれの横浜育ちで、小学校から高校までずっと同じ学校だったそうです(笑) 幼少期を振り返ると、私はかなり活発でやんちゃな子供だった気がします。いたずらが過ぎて、ブランコで一緒に遊んでいた友達にちょっかいを出して骨折させてしまったこともありました。そんな私に対する両親の躾はかなり厳しかったと思います。身体を動かすことが大好きだったので、「何かスポーツをやりなさい」という親の意向を受け入れ、小学校2年の時に地元の野球クラブに入団しました。強豪チームということもありコーチの指導はとても厳しく、とにかく怒鳴られてばかりいました。「鬼コーチ」とみんなが恐れていましたが、私にとっては、父のほうが数倍怖かったですね。学年が上がってもなかなかレギュラーになれない私に対し、父の指導による特訓が始まりました。「お前は下手だからチーム内での競争に勝てないんだ。」父は努力の量が足りないと言いたかったようですが、私は「下手=才能がない」と勝手に思い込んでいて、自分の努力不足を認めることができませんでした。だんだん野球自体が面白くなくなり、父にクラブを辞めたいと伝えると「たとえクラブを辞めても俺との特訓は終わらんぞ」と脅され、結局卒業まで野球を続けました。

中学ではバスケ部に入部しました。部員30名ほどの弱小チームで、練習もそれほど厳しくはありませんでした。1日でも早くレギュラーになりたいと思っていた私はチームの練習には飽き足らず、パワーアンクルなどの重りをつけるなど、負荷をかけて練習に参加していました。自分より身長の高い選手に上からシュートを決められたりするとホントに悔しかったんですよ(笑) 「絶対に上手くなってやる」という持ち前の負けず嫌い精神が功を奏したのか2年の夏からレギュラー入りし、努力をすれば勝ち取ることができるということを実証することができました。きっとこれこそが、父が私に教えたかったことなのでしょうね。

ちなみにここまで触れていませんでしたが、ずっと成績は優秀でした。小学校から中学2年まで、通知表はオール5をキープ。きっと通っていた塾のおかげだと思います。しかし、レギュラー入りしてからは部活だけに集中するようになり、遅い反抗期を迎えたことも重なって、まったく勉強をしなくなってしまいました。当然のように成績は急降下。見かねた父からは「最低でも俺の出身校と同等以上のレベルの高校には行けよ。でなければ許さん」とハッパをかけられました。「とりあえず塾には行っているから何とかなるだろう」と特に危機感を覚えることもなく、最終的には両親の母校である公立高校に何とか滑り込みました(笑)

キャリア選択の軸:
「あとはお前の好きに生きろ」求められた自立した生き方。

「義務教育を終えるまでは親の責任として厳しく接してきたが、これからは自分の好きなように生きて構わない。自分で考え自分で決断し、自分で責任を取るように。」と高校入学時に、自立した生き方を目指すよう、父から促されました。それから父は私にまったく干渉しなくなりました。

高校入学からしばらくの間は、知らない人ばかりの環境に少し戸惑いました。同じ中学出身の友達が一人しかおらず、新しい友達との接し方がよくわからなかったのです。しかし、日が経つにつれて徐々に仲間ができ始め、なんとか学校で孤立せずに済みました。じつは入学当初はバスケをやろうと思っていたのですが、体験入部で練習を見学した時に、あまりにも体格のいい部員ばかりが揃っているのを目の当たりにし、自分には勝ち目がないことを悟り、1年の後半頃に友達から誘われてバイトを始めました。日雇い派遣や駐車場の整理係など、いろいろやりましたね。ある意味部活をやっているような感覚で、けっこう楽しかったです。

高校時代でもっとも印象に残っているのは3年の時の文化祭ですね。2年の夏が過ぎたあたりで、クラスの盛り上げ役を担っていた友達から「来年の文化祭はダンスでもやってヒーローになろうぜ」と誘われました。これに仲間全員が賛同し、1年かけてみっちりダンスの特訓をすることになりました。「やるならブレイクだな」と盛り上がったのですが、ダンス経験者はゼロ。素人が適当にやっても上手くならないだろうと、ストリートで踊っている先輩たちにお願いして基本から教えてもらうことになりました。文化祭までの1年間はひたすらダンス漬けの日々でしたね。思えばこの1年間こそが、自分にとってもっとも充実していた時期だった気がします。

迎えた文化祭本番。今思い出してもワクワクするぐらい、めちゃくちゃ盛り上がりました。まさに「出し切った」という充実感がありました。こういう言い方をすると大袈裟だと思われるかもしれませんが、幼少期からの人生の集大成だなと思いました。文化祭以後、周囲の友達は完全に受験モードに入り話題は大学進学のことばかり。文化祭で完全に燃え尽きてしまった私は、先のことなどまったく考えられず、ただ漫然とした日々を過ごしていました。大学進学はほぼ諦めかけていたのですが、周囲の友達全員が大学へ行くという流れに逆らってまでやりたいことがあるわけではなく、とりあえず受験することにしました。

バイトとダンスに夢中になりほとんど勉強しなかったため、受けた大学はすべて不合格。まあ当然と言えば当然です。その結果を受けてもう一度チャレンジしたいという気持ちが湧いてきたので、浪人生活を送ることにしました。父からは「お前の好きにしなさい。但し、大学の学費は自分で稼げよ」とだけ言われました。3年間好きなことだけやってきたのだからそれも当たり前かと納得しました。高校卒業後、すぐにコンビニで深夜のバイトを開始。日中は自宅で勉強のはずでしたが、思ったほどに勉強に打ち込むことができませんでした。家族とは正反対の生活サイクルで、午後から起き出してはネットでアニメ鑑賞に耽り、時間が来たらバイトへ行く。日々その繰り返しで、見事なまでの自堕落な生活を送っていました。

あっという間に1年が過ぎ再び受験。何校受けたかは定かではありませんが、奇跡的にある大学の法学部に合格しました。「とりあえず法律を学んでおけば強いかな」それが法学部を選んだ理由です。とりあえずバイトで貯めたお金を学費とし、父との約束だけは果たすことができました。

社会人時代/ビジョン:
大学で学んだことは何もない。バイトこそが人生の教科書だった。

【写真説明:入社1年目、自らの仕事の成果を発表した全社総会】

大学の講義は自分がイメージしていたものとは異なり、まったく面白くなかったです。大学とは学生同士が自ら学んだことをぶつけあうディスカッションの場だと思っていたのですが、実際は座学で講義を聞いているだけ。高校の授業と変わりませんでした。4年間講義には出ていましたが、とくに何かを学んだとは思いません。大学よりもアルバイトのほうが学ぶことは多かった気がします。卒業までの4年間コンビニとファミレスでバイトをしましたが、たくさん貴重な体験をさせてもらいました。コンビニではバイトの領域を超え、スタッフの教育、店舗オペレーションや商品構成なども任せてもらい、売上を意識した仕事を経験させてもらいました。店長代理として打ち合わせに参加させてもらったこともあります。考えて仕事をする面白さをここで学びました。

それもあり、就職に対してはある程度自信を持っていました。バイトを通じて仕事の本質をある程度知ったという確信があったからです。3年の終わりから就活を始めましたが、スタート段階からIT業界一本に絞り込んでいました。私がバイトをしたコンビニ・ファミレスはともにコンシューマへのサービスを行う業態であり、人員オペレーションこそが重要となる業界でした。職場環境としてはまだまだ改善の余地があるとずっと考えており、働く人にとってより仕事を楽しめる環境を自分の手で作りたい、それをサービスとして提供したい、それができるのがIT業界だと思ったのが業界を絞り込んだ理由です。

しかし、私が就職した2012年はリーマンショックの後遺症と震災の影響で就職環境はかなり厳しく、選択肢はかなり狭かったと思います。そんな中でシーエスエスに出会ったのは就職サイトでした。採用選考の面接時に、バイト時代に感じたある悩みについて尋ねてみました。売り上げアップを念頭に店長・マネジャーに色々な提案をしてもほとんど聞いてもらえず、ある程度までは任せてもらえても結局は立場を超えた仕事はできないことを悔しく思ったことを思い出し、「こんな時、部長さんならどうしますか」と質問を投げかけました。それに対し、面接を担当した部長は丁寧に答えてくれました。さらに後日、個人的にメールを頂戴しカーネギーの著書を薦めて頂きました。こういう方が存在する会社ならば信頼できると思いましたね。その他、お会いしたすべての方に共感できるところがあったので、入社を決意しました。

入社して思ったのは、1日でも早く戦力になりたいということでした。バイトでの経験から、教える側の大変さを知っていたからです。4ヶ月の新人研修後、まず銀行ホストコンピュータ関連の業務に就きました。正直言って、数字をひたすら見ていく仕事は苦手だと感じました。1年が過ぎ仕事にもだいぶ慣れてくると、新たな技術や異なる業務分野で自分を試してみたいという思いが強くなりました。わがままを承知でスキルチェンジしたい旨を会社に伝えると、快く受け入れてもらいました、この辺の懐の深さが当社のいいところかもしれません。もともと働く人にとって仕事を楽しめる環境を作りたいという想いが原点でしたから、自社の環境改善について感じることはどんどん上司に提案できます。入社から3年、ある程度自分の力でやれる自信は付きました。今後はもっと自分に対する評価を上げていくことが当面の目標ですね。そして、いずれは自らの手で何らかのビジネスを立ち上げたいと思っています。
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出身 神奈川県横浜市
好きな言葉or座右の銘 継続は力なり
趣味 ダーツ
地球最後の日に食べたいもの 味噌汁、世界にひとつしかない食べ物
今一番行きたいところ 天国(死にたいなどとは思っていませんよ)
越後屋輝樹

越後屋輝樹

1989年リクルート入社以来、HRの仕事一筋に歩んできました。現在は宇都宮市を拠点に、フリーランスとして企業の採用広報のコンサルティングとライティング業務を行っています。
座右の銘は「朝毎に懈怠なく死して置くべし」
越後屋輝樹

投稿者:

越後屋輝樹

1989年リクルート入社以来、HRの仕事一筋に歩んできました。現在は宇都宮市を拠点に、フリーランスとして企業の採用広報のコンサルティングとライティング業務を行っています。 座右の銘は「朝毎に懈怠なく死して置くべし」